ODAWARA

先日思いがけなくブルートゥース接続ができるように改造し、アンプとスピーカーが一体になったものをいただきました。

写真の天板は改造した時に新たに作った天板で簡易ミキサーの機能を持ったアンプが取り付けてあります。

元々はどんなものだったのかと調べてみるとこれのようです。

たしかにこの上の部分を取り外した形をしています。

どうやら高級ラジカセだったようです。

すでに何台か改造しているとのことで、本来のアンプを残して外部入力を取り付けてあげると良い音がするとおっしゃっていました。

ところでいただいたこの元ラジカセは居間に置くことにしました。ブルートゥースでインプットができる音響機材を持ったことがなかったのですが、この元ラジカセの・・・。元ラジカセというのも微妙なので、小田原の方からいただいたということでODAWARAと呼んでみます。

僕はテレビ好き人間なのですが、このODAWARAを居間に置いてからはブルートゥースで繋いで音楽を聴くことが断然多くなりました。今朝はニュースを観ようと思い、てテレビを点けると様々なニュースが飛び込んできました。

すぐにテレビを消しましたが、ふとひとりの人間が受け取ることのできる情報ってどれぐらいあるんだろうかと思いました。最近はテレビやネットを通して世界中の情報に触れることはできますが。それらの情報と自分って乖離していますよね。多くのことを知ってはいるけれども何もできそうにない自分がいる。その何もできそうにないというのは決してその人間の弱さのゆえではなく、そこにいないということも大きいなと感じました。

世界から自分に向けてフォーカスするのではなく、自分がまずちゃんと立って、そこから世界に視点を広げてゆくのでなければ「何にもできそうにない・・・」から脱却できないのではないかと思えたのです。

僕の曲に「君がいて僕がいる」という曲があります。その冒頭の部分の歌詞はこうです。

かけがえのない友がいて
話せば尽きない本を持ち
幸せの記憶をひとつ持ち
愛する人がひとりいる

これはある日本の思想家の方がヨーロッパの思想家のことばとして紹介していたことばからインスピーレーションを受けて綴りました。その日本の思想家の方は「ひとりの人間も愛せないのに偉そうなことを言うな」と言っていました。そう、そんな感じです。自分のいる場所で生きるというナニカにふれずに、メディアやテレビから溢れてくる無責任な情報に一喜一憂するなということにもなります。

もしも誰も愛せない自分がいるのだったら、世界のことを憂う前に自分のために哀しめでしょうか。朝から偉そうにすみません。期せずしていただいたODAWARAが大切なことを思い起こさせてくれました。

日記, 音楽

Posted by buchi