アリシアの森(29)焚き火理論

01/01/2021

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

の童謡のような焚き火に身近で遭遇することはなくなりました。僕の子供の頃、夕方になるとどこからともなく何かを燃やした煙や匂いが漂ってきたものだと懐かしくなります。

90年代後半には焚火をすると有害なダイオキシンが発生するということで、さらに焚火が敬遠されるようになりました。現在はダイオキシンの発生は問題視するほどではないということになっているようです。

さらに住宅が密集している街中で焚火をするには、通報、近所迷惑、火事、等々のトラブルを覚悟しないといけないようで、消防署的には焚火の煙をみた隣人から通報があれば出動せざるを得ないようです。

ということで焚火をしたい時には適切な場所で規則を守ってするしかないようです。

さて僕は焚火が大好きです。正確に言いますと誰かが燃やしてくれた焚火に辺りに行くのが好きです。もらい焚火ですね(汗)。

さてここのところ毎回のブログに「なんとか理論」なんて大袈裟なタイトルをつけていますが、今日はアリシアの森の「焚火理論」です。

それはアリシアの森の集い方を焚火にイメージしているからです。具体的にはイエスキリストを真ん中にして、あるいはイエスキリストを思う気持ちを真ん中にしてみんなが輪になっているイメージです。焚火の周りに集まると人はなぜか無口になります。炎に見とれて炎以外が目に入らなくなるからでしょうか。やがて誰かが歌い出せば歌います。でも歌いたくない人は聴いていればOKでしょう。誰かが夢を語り出します。それを聴くも聴かないも自由です。誰かが難しい話を持ち出します。でも焚火ではそれがあまり似合わないかもしれません。多分それはみんながひとつの火で温もっているからです。

焚火の周りにいる人はイエスキリストを主とする以外は同じでなくて良いのです。願うことは互いに違いを感じながら一緒にいてみるということです。一緒にいてみなければわからないことってたくさんありますし、一緒にいてみればさらに深く一緒になれることも起こるかもしれません。

この焚火理論を僕に宿させたのは京都で牧師をされている大頭眞一先輩です。牧師は普通先生とお呼びするのですが、大頭先輩自らが先輩と呼び合うことの提唱者なので互いにそう呼ばせてもらっています。

以前先輩の詞に作曲をする流れになって「神の物語」という曲が生まれました。

アリシアの森は大きな焚火で、その中に小さな焚火が生まれて行くのを楽しみにしています。でも森林火災だけにはならないようにしないといけません。そのためにはお互いが賢い消防士になる必要があるかもしれませんね。