CASへの思い4ー教会とアート

時々「キリスト教会は10年遅れている・・・」という言葉を耳にします。何から遅れているのかというとそれは一般社会からということになりますが、まず礼拝を第一義的な存在理由とする教会がその本筋において社会から遅れているかどうかという議論は成り立たないでしょう。ただしその礼拝が一般の方々から見て魅力的かどうかという点は一考に値するとは思います。

その一考とは礼拝がTVショーのように無駄なく構成されていて、参加し応えがある、見応えがあるかどうかという観点からではなく、神礼拝としての感動をもたらすかどうかということです。オーソドックスな礼拝が時代遅れだという感覚はひょっとするとクリスチャン自身の方が強く持っている感覚なのかも知れません。それは頑張っても頑張っても教会になかなか人が来てくれない原因を探る中で挙げられてきた事のひとつなのだと思います。

世界にはテレビ局同様の施設とスタッフを擁している教会があります。それらの教会の影響力は世界中に及んでいますが、果たしてそれが個々の人生における信仰にどれだけ良い影響を及ぼしているのかどうかは時代が経ってみないとわからないのではないかと思います。

こう書いてくると私がとても保守的だと思われる方もいらっしゃると思います。自分がクリスチャンである以上保守的であることは間違いがないと思います。しかしこの保守とは古い伝統だからというので訳もわからずに称賛したり守ろうとするものではありません。守らなければいけないものを守り、変える必要のあるものを変えるという事です。ですから教会の本質をより良く表現する、より良く伝える事に関してもそうすべきだと思います。

キリスト教をより身近に感じてもらうために、教会の敷居を下げ、わかりやすくするという取り組みは散々なされてきました。時代が繁栄を謳歌していた上昇志向の時代はそれでも良かったかもしれませんが、今、世界的なコロナ被害、不安定な国際情勢、信頼の揺らぐリーダーシップ等々、将来への不安が増している時代はより本質を求められるようになるのではないかと感じています。

敷居が高いか低いかということの例としてディズニーランドをあげてみましょう。私はディズニーランドって敷居が低いですか?と聞かれて「低い」とは答えにくいと思います。だってまずはあの入場料です。そして普通はランドにたどり着くまでに時間とお金を使います。一日遊んで疲れ切り、遠方からだとホテルも必要になります。泊まらず帰途につくにしても、お土産を抱えての疲れ切った帰り道はなかなかのものです。でもディズニーランドへは行きたいなと思います(笑)。それは他に無いからです。

教会にあって他に無いものは何でしょうか。それは神礼拝でしょう。ここからは自分自身にも言うのですが、教会音楽に携わる者として、礼拝を学び、知り、自分自身の礼拝の心を育て、音楽家としてどのように礼拝に「在る」べきかを祈り求めていかなければならないと思います。人の本質が震えるような礼拝のために。

さて少し話は跳びますが、教会ではクリスチャンアーティストに対して一般と比べてどうかという評価を下します。その最高評価のほとんどが一般と比較しても見劣りしないというあたりになっているように感じます。人を育てる時には育てている人間側の評価が育てられる側の人間に与えている影響は少なく無いと思います。それはキリスト教文化にも当てはまるところがあります。実は教会やクリスチャンもクリスチャンアートに正直それほど期待はしていないのだと思います。もちろんそうさせてきたアーティスト側にも問題があるでしょう。しかしこれはキリスト教文化全体の問題なのではないでしょうか。そしてそういう文化の現状は自分たちの信仰の姿を表していると言ったら言い過ぎでしょうか。

私がCASを通して実現してゆきたいと願っているのは、アートという側面からクリスチャン世界全体がワクワクする有機的な空間に発展したらという身の程しらずな事です。「具体的にどうするの?」との声が聞こえてきますが、その答えはこんな思いに賛同してくださるあなたと一緒にそれを生み出してゆくということです。何せ未だかつてない事なので私にもわからないんです。

今日は自分の曲をここにリンクしておきます。オリジナルの中で辛辣度ナンバーワンの曲です。

そして本田路津子さんの歌で恒例になってきた「一人の手」のいろんなバージョン。

曲はピートシーガーさんですが、なぜか本人の歌が見つかりません。

で今日はこんなの。

 

CAS, 日記, 音楽

Posted by buchi